2018.05.01
一部のために全体を犠牲にする;
取り組みの是非を検討するときに、よくある現象がタイトルにある通り「一部のために全体を犠牲にする」という、私たちが陥りがちな罠である。たとえば、全社的にフレックスタイムを導入しようという話が出てくる。入れる目的もはっきりしていて、成果も出ることがわかっているとしよう。それでも、ほんの一部、100人にひとりくらいの割合で、どうしてもフレックスタイムを使えない人が出てくると、「そういう人たちが出てきてしまうと不公平だ」という理由で全体の導入をやめてしまう。
また、業務改善や業務削減のご相談をいただくと、まずは一定の基準やルールを設けて業務評価を行い、その結果に基づいて不要な業務を削り取るというアプローチを提案する。すると、「社長がこの基準を理解しないで余計な仕事を生み出すことがある。社長が従ってくれない限り、この取り組みをやっても効果が出ない」といった反論が、非常によく出てくる。(社長がオーナーとなるプロジェクトならよいが、業務改善の仕事は部長クラスや役員クラスなど、現場の課題認識から始まることが多い。)
一見正しそうに見えるこれらの反論は、全く論理的ではない。なぜならば、「不公平である=やってはならない」「社長が無駄を生み出す=やっても意味がない」というように、根拠と結論を整理してみると、全く成り立っていないからである。
成果が出るかどうかという話と、不公平であるというのは別の話である。また、不公平にもいろいろあって、少数の人が損をするということであれば、何らかの補償を入れれば良いし、単に利益を享受できないというだけなら、それすら必要ない。全体の利益と必要な補償の差し引きでプラスが出るなら、実行するという判断の方が正しい。
同様に、一部で利益が出ないからという理由で、取り組み全体を否定するのもおかしい。社長が生み出す無駄など、全体の無駄と比較したら微々たるものなのだ。それを理由に「取り組みの意味がない」という暴論がまかり通るのが、日本企業ではよくある現象なのである。
なぜ、こんなことが起きるのか。それは、私たちが抽象的、感覚的にイメージだけで仕事をする傾向が強いからだ。事実関係を積み上げたり、数字で検証して、成果や効果を測るなど、客観的、論理的に判断するのが苦手。特にマイナス要因に対しては過大なイメージを形成しやすいので、客観的に見れば大したインパクトの無いことでも、「それがあるから、やるべきではない」という『やらない理由』に発展しやすい。
やるか、やらないか、という意思決定をするときにマイナス要因が挙げられたら、必ず事実確認をして、それが「どのくらいの頻度、量、確率で発生するのか」を定量化してみることをお勧めしたい。そうしないと、いつまで経っても一部のために全体の取り組みが犠牲になり、物事が前に進まない。どんなに中途半端でも、やらないよりやったほうが少しでも成果が上がるのであれば、やったほうがいいに決まっているのだ。