2016.02.05
がまんは良くない :
もちろん、多少のがまんは必要だ。だが、がまんすることを美徳ととらえてしまうと、成長の機会をうまく捉えられないこともある。
先日、ある企業の若手研修で「動機の源泉」に関わる自己分析を行っていただいた。よく現場のマネジメントで行われている手法だ。自分が仕事をしていて、やりがいや喜びを感じたときのことを具体的に思い出して言語化する。その時、いったい何がそのやりがいや喜びに繋がっていたのかを、洗い出していくのである。複数の場面について書き出していくと、何となく傾向のようなものが見えてくる。
そうやって自分の動機の源泉を事実関係に基づいて探り出しておくと、仕事を組み立てるときに、それを意識的に満たしていこうとするアプローチをとることができる。もちろん、いつも成功するわけではないだろう。だが、そういうアプローチを意識することで、仕事への姿勢が前向きになり、時に仕事にのめり込み、高い成果を出していく原動力に繋がっていく。
そんな話をしていたら、「誉められることが動機の源泉だったとして、誉められるために仕事をするって、なんか嫌らしくないですか?」とか、「私はゆとりをもって仕事をしたいし、楽をしたいという思いが強いらしい。こんな人間はビジネスに向いていないんでしょうか?」といった質問が寄せられた。いずれも誰もが持っている動機付けの源泉であり、何ら特別なものではない。言わばフツウである。そうした欲求を満たそうとすることに不自然な疑問を持ってしまっていることに、問題があるように感じた。
誉められようとして最善を尽くすことの何が悪いのか。楽をするために工夫や努力を重ねることはむしろ推奨すべきことだ。楽をしたいという思いを持たず、気合いと根性だけで仕事をしている方が、よほど問題だ。
私たちは自分の欲求を満たすために努力をし、発達してきた生物である。自分の欲求を満たそうとするときには、ただの仕事を越えたパワーを発揮することもある。我慢して自分の欲求を押さえ込もうとすることは、自らのパワーを封じてしまう結果にもなりかねない。
誰かに満たしてもらおうと他者に依存せず、自らの力で自らを高めていこうとすることに、不健全とか嫌らしいとか感じる必要はないのではないか。何事もがまんはあまりよろしくないように思う。