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今日の一言

「叱る」と「怒る」は違う。

 昔からのマネジメントの心得として、「叱ると怒るは違う」と言う。
 叱るというのは論理的、理性的に相手に言い聞かせる。怒るというのは自分の感情を相手にぶつける。実は全く違うのに、なぜか日本では家庭でも職場でも、この二つが混同されがちである。
 昨今、パワハラに関する相談や議論の場によく立ち会うが、ハラスメントに関わる会話をしていても、明らかにこの二つを混同している管理職の発言が目立つ。
 たとえば、人事が「部下に怒鳴ってはいけません。怒ってはいけません。」という通達を出すと、
 「部下が失敗したり、ミスをした時に、どうやって指導したらいいんだ。」
 「部下がやる気を見せず、仕事を怠けていたら、それでも怒ってはいけないのか。」
と、いうような反論が出てくる。まさに、『叱る』と『怒る』が完全に混乱している典型例である。
 上記のような場合、素直に、言えばよいではないか。
 「あなたは、こういう失敗、ミスをした。これは、この部分の判断をこのように間違えたことによるものだ。次回、同じ作業をするときには、こういうやり方でチェックしてみなさい。」
 「あなたの仕事ぶりは、あなたに期待された水準に達していない。この仕事については、こういう水準で、このくらいの分量を処理してください。」
 こんな風に、言うべきことはきちんと言えばいい。別に、「怒るな」と言っているだけで、「叱るな」とは言っていないのである。
 こんな風に言うと、それでも、
 「そんな優しい言い方をしても、うちの部下は言うことを聞かない。ガツンと言うしかない。」
と、反論される場合もある。
 だが、この『ガツンと言うしかない』という主張は、『上司には、ガツンと(つまり、感情的に)威嚇する権限がある』という前提の上に成り立っている。そもそもパワーハラスメントという言葉が発生する前から、上司には部下を精神的に抑圧する権利も権限も与えられていないのである。『ガツンと怒鳴りつける』というオプションは、もともとないのだ。

 おそらく、この『叱る』と『怒る』の混同の原因の一つは、小学校から中学校の教育のあり方にあると思う。運動会の時期に、小学校の前を通りかかると、教師がメガホンでヒステリックな怒鳴り声をあげているのが、よく聞こえる。子供の話を聞いていると、学校でも、塾でも、大人は子供を怒鳴りつけ、それによっていうことを聞かせるのが当然の権利だと思っている人が多いようだ。または、それしか方法がないので、しかたがないと、自分を正当化している可能性が高い。
 立場的に、上の者が、下の者に言うことを聞かせるには、「怒鳴りつける」しかない。この発想が、学校教育から連綿と受け継がれているのではないか。

 じゃあ、どうしろというのか。当然、そう思われると思う。
 単純だ。怒鳴りつけることで威嚇するのではなく、罰を与えるか、またはそれを知らしめることで矯正を促すのである。
 マネジメントの基礎は信賞必罰。だから、やるべきことをきちんとやったらそれを認め、報酬を与える。やるべきことをおろそかにしたら、それを指摘し、罰を与える。それが管理職が駆使すべき、マネジメントの権限である。
 部下がミスをしたり、失敗をしたら、評価を落とせばよいのである。その水準が低評価でおさまらないほどひどいなら、降格させればいいのである。それでもおさまらないなら、懲戒制度の対象として処分すればいいのである。それでも修正されないなら、雇用時の合意を満たしていないということで、退職を勧告すればいい。
 怒鳴りつけるのではなく、冷静に、理性的に、説明をする。
 「あなたは、こういう失敗を繰り返している。等級基準や評価基準に照らし合わせると、これは5段階評価の一番下に該当する。この評価を何度も繰り返すと、降格となり、報酬水準がこのくらい下がる。こういう失敗がなくなるように、私も指導するから、あなたも努力して失敗しないように仕事のしかたを身につけてください。」
 こうやって言って聞かせても、言うことを聞かないとしたら、予告通りに低く評価し、それでも繰り返されるなら降格させるしかない。相手が全く変わらなかったとしても、下げ続けていけば、どこかの段階で、働きと処遇が一致するだろう。(一番下まで下げても一致しなかったら、それは人事と相談して、退職勧告を検討するしかない。)

 もちろん、こうした『罰を与える』というのは、個人の裁量でやるわけにはいかない。仕組みや制度がしっかり整っていなければならない。その仕組みもないまま、円滑なマネジメントを強要すると、無理が生じるのでマネジメント不全が起きる。それが顕在化した形の一つが、パワハラなのだ。

 前述の小学校の例だが、私は教師のみなさんを批判するつもりはない。どちらかと言えば文部科学省を批判している。なぜかというと、公立の小学校でルールを守らず、授業を妨害し、教師の指示に従わない児童がいても、これを罰するための罰則(たとえば、停学や退学、留年、罰金やペナルティーとなるような作業を与えるなど)が一切ないのである。これで、ルールを守らない児童や保護者に言うことを聞かせろというのが、無理な話だ。あらゆる体罰(バケツをもって廊下に立たせるなど)も禁止されたので、残された『武器』は、大人の大きな声で威嚇する(=怒る)しかないのである(保護者に対しては、何もできない)。しかし、これも社会的な風潮を考慮すれば、いずれ封じられていくだろう。そうなると、学校の教師には、何のマネジメントオプションもないまま、児童のマネジメントが求められることになる。大変だ。よほど子供が好きで、かつマネジメント能力が高くなければ務まらない仕事だ。
 企業の管理職は、公立の学校の教師に比べれば、ちゃんとツールがある。それが、評価制度だ。ちゃんと人事の仕組みを読めば、降格の仕組みも、懲戒の仕組みも、たいていの会社にはきちんとある。それを管理職がきちんと理解し、使いこなせばいいのだ。なのに、多くの管理職は、期末に低い評価を与えることを極端に嫌う。そのくせ、怒鳴る。

 叱ると怒るは違う。どこの企業でも、パワハラを含めて「怒るな」とは言われていても、「叱るな」とは言われていないはずなのだ。仕事をきちんとしない部下に対しては、言うべきことをきちんと言い、与えるべき処遇をきちんと与えるべきだ。むしろ、「怒る」よりも本質的には「厳しい」マネジメントが求められているのである。